ビール酵母の育種は、ビール醸造の歴史そのものと言っても過言ではなく、ビールの品質向上、多様化、そして産業化に貢献してきました。
歴史の初期段階では、酵母の存在は全く認識されていませんでした。古代メソポタミアやエジプトの時代からビール(穀物を利用したホップ無しの醸造酒)は造られていましたが、発酵は空気や容器中に自然に存在する微生物によって行われていました。そのため、再現性が低く、品質も安定しなかったと考えられます。
17世紀、アントニ・ファン・レーウェンフック(Antonie van Leeuwenhoek)が顕微鏡を発明し、微生物の存在が認知されるようになりましたが、酵母(Saccharomyces属)が発酵の主役とは認識されませんでした。
1857年にルイ・パスツール(Louis Pasteur)がアルコール発酵が微生物の働きによることを発見しました。さらに1883年にデンマークのカールスバーグ研究所のエミール・クリスチャン・ハンセン(Emil Christian Hansen)が微生物の純粋培養に成功しました。これにより、単一の酵母菌株を分離・培養し、ビール醸造に利用することが可能になりました。これは、ビール酵母育種の実質的な始まりと言えるでしょう。
純粋培養技術の登場以降、意図的な酵母の選抜と育種が始まります。初期の育種は、醸造所で伝統的に使用されていた微生物の中から、優れた性質を持つ酵母株を経験的に選抜していました。例えば、発酵力、フレーバープロファイル、凝集性、低温耐性など、目的に応じた酵母が選ばれ、繰り返し培養・使用されることで、醸造環境への適応が進み、それぞれの醸造所に固有の酵母株が育まれていきました。
20世紀に入ると、酵母株の交配や突然変異誘発といった科学的手法が導入により多様な酵母株が開発され、ビール品質が飛躍的に向上していきました。
交配:異なる性質を持つ酵母株を掛け合わせ、両者の良い性質を併せ持つハイブリッド株を作り出す技術
突然変異誘発:紫外線や化学物質などを酵母等の菌株に供試し、ランダムに変異を誘引し、その中から目的とする性質を持つ変異株を選抜する手法
そして現代、酵母育種は遺伝子工学の時代を迎えつつあります。遺伝子組み換え技術やゲノム編集技術を用いることで、従来の育種法では困難だった、より精密で効率的な品種改良が可能になりました。例えば、特定のフレーバー成分を強く生成する酵母、副産物の生成を抑制する酵母、高アルコール耐性を持つ酵母など、高度にカスタマイズされた酵母の開発が進められています。アジアやEU圏では遺伝子組み換え酵母の使用は厳格に規制され、消費者も回避する傾向にありますが、北米圏ではビアスタイルを最大限表現するために積極的に利用されているようです。
ビール酵母育種の歴史は、まさにビール産業発展の歴史そのものです。偶然に頼っていた時代から、科学的なアプローチを取り入れ、そして遺伝子工学の時代へ。酵母育種の進歩は、これからもビール業界に革新をもたらし、ビール体験をさらに豊かにしてくれるでしょう。